1.閑散としたラウンジ
2004年7月23日、21時30分。
今日も残り2時間近くとなっているのに、まだたそがれ時の雰囲気を漂わせているパリ・ベルシー駅のホームには、22時20分発「アルテシアナイト・スタンダール」号、イタリア・ミラノ行きが停車していた。「アルテシアナイト・スタンダール」号は、パリ・ベルシー駅〜イタリア・ミラノ中央駅を結ぶホテル・トレイン。イタリア国鉄の車両が使用されているが、フランス内ではフランス国鉄の機関車が牽引しているようだ。

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| ベルシー駅に停車中の「スタンダール」号。 |
アルテシアナイトのラウンジ。ラウンジとて、その内容はたいしたことなかったが…。 |
「スタンダール」のほか、パリ〜ベネチアを結ぶ「リアルト」、パリ〜フィレンツェを結ぶ「ガリレオ」、パリ〜ローマを結ぶ「パラティーノ」の計4種類があり、「アルテシアナイト」とは、この4種類の総称である。スタンダール号は、「アルテシアナイト」の中では最後にパリを発つ列車で、他の列車より走行区間が短いためか、食堂車の連結はない。なお、他の列車には食堂車のほか、売店なども設けられているという。
「スタンダール」はかなり早くから入線しているようで、すでにドアも開き、お客を乗せる体制になっている。ホームの人影はまばらで、ぽつぽつと乗り込んでゆく程度。それでもクシェット(簡易寝台)、個室車も、各車両に6割ほどの乗客が乗り込んでいる。
このベルシー駅は、パリのターミナル駅のひとつであるリヨン駅から、500メートルほど離れたところにある駅だ。元は貨物駅だったとのことで、確かにホームの床などもあまりきれいではないなど、貨物駅らしい雰囲気が残っていたように感じた。
乗車する前に、発車までまだ時間があるので、私は駅に備え付けられているラウンジを利用することにした。ラウンジは2階にあるが、このラウンジは「アルテシアナイト」の「エクセルシオール」と1等寝台の利用者しか利用できないので、安心して利用できる。
私は入る前までは、さぞかし豪華なラウンジだろうと、かなりの期待感を抱いていたが、いざ入ってみると、中には妙に角ばった黒いソファーとテレビ、あとコーヒーと紅茶が出てくる給茶機が置いてあるだけの簡素なもので、食べ物は一切ない。しかも、利用者は私たち4人のみで、なんとも寂しいラウンジである。ラウンジは2階の隅にあって目立ちにくい上に、つい最近できたばかりらしいので、きっと知名度が低いのだろう。給茶機の使い方がうまく分からなかったので、入り口にいた女性係員に使い方を教えてもらい、コーヒーを入れてしばしくつろぐ。
壁の案内板によると、このラウンジは出発30分前まで利用可能とのことである。日本では列車の出発まで過ごせるラウンジの例がないが、この程度で「ラウンジ」といえるのなら、日本でもすぐ実現できるのではないかと思った。日本には「カシオペア(上野〜札幌)」「トワイライトエクスプレス(大阪〜札幌)」などの豪華寝台特急が何本か走っているが、発着駅にそのようなラウンジを設けてみたらどうかと思う。でも、日本では発車時間ギリギリにホームに来る人のほうが多いようだから、必要ないという考え方もできるかも。
出発時刻がそろそろ近づいてきた。とりあえず写真をも枚か撮影した後、駅のいちばん隅のホームにいる「スタンダール」号に向かう。今晩、私たちが利用するのは、「エクセルシオール」と呼ばれる、「アルテシアナイト」の中では最も豪華なクラスである。「エクセルシオール」は、ベルシー駅発車時点で、最後尾に1両だけ連結されており、入り口で車掌が検札を行っているのが見えた。乗り込んでいく人は、何か「金持ち」という感じの、貫禄のある人たちが多い。
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| 「エクセルシオール」の車内。車内は狭いが、必要なものがコンパクトかつ機能的にまとめられている。 |
エクセルシオールには、シオールの乗客以外、立ち入ることはできない。 |
「エクセルシオール」は全席2人用の個室で構成されており、各個室にはトイレとシャワーが完備している。ベッドは2段ベッドで、部屋そのものの面積はいたって狭いのだが、なかなか機能的である。ただ、ベッドとバスルーム入り口の間が数十センチしかないため、大荷物だと置き場に少し困るかもしれない。そのために、2段ベッドの上段と同じ高さの荷棚が設けられているが、これもあまり大きさは大きくないので、少し心配だ。
しかし、エクセルシオールは、セキリュティの面はとても安心である。出発前に見に行くと、次の車両へ行くドアは南京錠によって鍵がかけられており、「エクセルシオール」以外の利用者は絶対入ることができないようになっていた。その上、旅行社のHPによれば、セキリュティカメラも備え付けられているほか、車掌も常に最低一人は乗務しているとのことである。ヨーロッパではスリや置き引きが多いから、ここまで厳重になっているのだろうが、本当に安心して利用できるのが嬉しい。
車内を見ての感想だが、廊下は若干狭いのを除けば、まるで三ツ星ホテルのような雰囲気である。さすが、観光案内ブックに「ホテルトレイン」と書かれていただけある。もっとも、これは最上級のクラスだからなのだが……。
発車まで時間があるので、再びホームに下りてから前に連結されている簡易寝台を見に行く。ここはさすがに料金が手軽なだけあって、若年層の人々の姿が目立つが、ビジネスマンのような人々も見かけたので、出張にも使われているようだ。
それにしても、「エクセルシオール」の客車はとても美しく、きれいに光り輝いている。他の車両、特に簡易寝台車などは、青い車体が、少し茶色くくすんでいる。さすが、一番豪華な車両だけあって、車両の検査なども他の車両に比べて、しっかりと行われているのだろう。
再び引き返して、部屋に落ち着く。窓の外も、ようやく暗くなってきた。
奥にはフランスが誇る超高速列車TGVが停車していた。ベルシー駅に停車していることから、「アルテシアナイト」の昼行列車版「アルテシアデイ」であると思われる。車内のあかりもまだ灯っていて、特に1等車は電球色の照明が、暗闇とマッチして、ひときわ美しかった。
今度来る時は「アルテシアデイ」もぜひ乗ってみたいところである。
2.揺れる揺れる「スタンダール」
22時20分、定刻に出発。
この列車は国境を越えるが、発車後に行われた車内改札で、パスポートと切符は車掌に預けなくてはならない。明日になったら返してくれるとのことだが、いささか心配である。
アルテシアナイトでは、出発すると、「エクセルシオール」と1等寝台の利用客にウェルカム・ドリンクがサービスされるが、選択肢は甘くて飲めないオレンジジュースとワインの2種類のみ。しかも、父はワインを注文したのにもかかわらず、来たのはオレンジジュースと、けっこういい加減なサービスだった。車掌によると、明日の朝食は7時30分に部屋まで運んでくるとのこと。いわゆる「ルームサービス」というわけだ。さすが「ホテルトレイン」である。
外はすっかり闇となったが、まだ車内の電気をつけた列車とすれ違う。ヨーロッパでは終電何時ごろなのだろうか。
それにしても、この列車は物凄く揺れる。ガタガタとした激しい揺れではなく、ユラユラとした揺れだ。気分が悪くなってしまうほどの揺れである。
こんなに上質のサービスを受けられるのに、こんなに揺れるというのは、何か悲しさすら覚える。本当は夜をかける列車に思いをはせながら、のんびりと紀行文でも書こうかと思っていたが、断念した。本当に残念だ。
さて、改めて部屋の中を眺めてみる。ベッドのリネンはとてもきれいで、清潔感が漂う。ベッドのスプリングもかなりしっかりしており、毛布も温かそうだ。
ベッドの上には、ビニール袋に封入された大中小3枚のタオルが備わっていたが、こちらも非常に清潔で気持ちよい。タオルには「ARTESIA」のロゴが入っていた。
次にバスルームを見る。バスルームは、右にトイレ、左に狭いシャワールームが備え付けられており、中央には小さい洗面台もついている。上の棚にはおしゃれなポーチがおいてあり、中にはひとつひとつ「アルテシア・ナイト」のロゴがついた石鹸、歯ブラシ、シャンプーなどが出てきた。また、その脇には小さいパックに入った飲料水が入っている。大変充実したサービスだが、日本の寝台列車ではでは当たり前の浴衣のように、バスローブや寝巻きは用意されていなかった。
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| 「ウェルカムドリンク」サービス。ピーナッツが軽食として用意されていた。オレンジジュースはヨーロッパではいつものことだが、甘すぎてとても飲めず…。 |
アメニティキットは非常に充実していて機能的。石鹸やタオルなども、非常に清潔感の漂うものであった。 |
出発からしばらくして、ようやく落ち着いてきたので、シャワーを浴びることにした。シャワーの湯は、ボタンを押すとしばらく出てきて勝手にとまるタイプで、温度も自由に変えることができる。最初は32度と、水に近いような温度が設定されていたので、湯を出した時、思わず体が硬直した。湯の温度はそこそこ安定しているし、設備はよかったのだが、やはり揺れるので落ち着かない。中にあるつかまり棒にしがみつきながら、とりあえず体を洗うのが精一杯だった。しかもシャワールームのドアは、揺れのはずみで簡単に開いてしまいそうで、もう“使いにくい”を通り越して、“怖かった”。
備え付けのバスタオルで体を拭き、寝巻きに着替えてようやくベッドに入った。室内は少し寒かったので、毛布の中は心地よい。窓の外はすっかり平原になったようで、ときおり木々や照明の落とされたホームが見えるほかは、何も見えない。ぼんやりと闇をうつす窓を眺めているうちに、いつのまにか寝入ってしまった。
3.真夜中の駅で分岐する「アルテシアナイト」
軽い衝動に目を覚ますと、ちょうど真夜中のディジョン駅に停車中だった。時刻は日付が変わって、まもなく1時になるころだが、今日最初の旅客扱い駅(乗客を乗降させるために停車する駅)でもあるのだ。ホームの人影はまばらで、停車はするものの、乗降客はないらしい。
ディジョンを出ると、時刻表上では「スタンダール」は6時55分着のトリノ駅まで停車しないが、この先途中の駅で、幾駅か荷物や運転士交代のため、ドアを開けず駅に停まる運転停車をしていく。再び目をさました3時30分ごろ、どこだか分からない駅にまた停車していた。ホームの灯りは半分ほど着いており、運転手と見られる人が2人、楽しそうに会話をしながら歩いていくのが見えた。乗客が寝ている間、夜を徹して働く人がいる。なんかこういうのを見ると、気楽に寝ている自分が申し訳なく感じられる。
「スタンダール」「リアルト」「ガリレオ」「パラティーノ」は、ベルシー駅からこのディジョンまでは、全列車同じ路線を走ってくる。つまり、実質的に全列車が分岐するのは、このディジョンからとなるのだ。話を聞いてしまえばそれまでだが、ようやくここで分かれるのかと、なんか複雑な心境だった。ちなみにディジョン駅は、この列車が停車する、フランス最後の駅でもある。
さすがに旅行の疲れで眠かったので、それから先は何をしたか分からない。でも、翌朝デジカメで撮影した写真を見ていると、撮ったはずの写真が撮れていなかったので、少しだけ落ち込んだ。
4.起きたら、そこはイタリアだった
再び目を覚ますと、外は明るくなっていた。日が上ったようで、車内にも明るい太陽の光が入ってきている。体を起こして、テーブルに置いてあった腕時計を見る。6時30分をまわったところだった。外が明るいので、通過してゆく駅の様子が良く見える。そろそろホームにも人の姿が多くなってきた。
ところで、先ほどから「アルテシアナイト」が妙な動きをしていることに気がついた。しばらくゆっくりと走った後、駅ではないところに停車、1分くらいした後に動き出すもまもなく停車…、を繰り返しているのである。機関車の調子が悪いのか、それとも前にいる列車が詰まっているのか分からない。たまに駅に停車すると、駅で列車を待っている人と目が合ってしまって、なんとも恥ずかしかったが、これが後で30分もの遅れを引き起こすとは思ってもいなかった。
7時10分ごろ、定刻約15分ほどの遅れで、イタリア最初の停車駅、トリノに到着した。各車両から20人づつくらいが降りてゆく。向かい側のホームには、イタリア国鉄の車両が停まっていた。時刻表を見ると、正規ダイヤでは7時2分発のIC611号ベネチア行きのはずだが、列車自体が遅れているので、本当にこの列車か分からない。
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| 7時10分ごろ、定刻10分遅れでトリノ駅に到着。初めて来たイタリアだ。 |
トリノ駅には、イタリア国鉄の車両が、多く停車している。 |
それにしても、日本では15分も列車が遅れたら、丁寧に謝罪の放送があるのが普通だが、スタンダール号では謝罪のアナウンスはおろか、トリノ到着の放送すらなかった。スタンダールに限らず、ヨーロッパの列車は日本の列車と違い、遅れは日常茶飯事のようだ。数日前、パリ・モンパルナス駅にいたとき、たまたま来たTGVは15分遅れだったが、謝罪の放送もなく、ただ駅の案内板に「15分遅れ」と出ているだけだった。おそらく「遅れ」に対する罪悪感というものがないのだろうが、ヨーロッパの鉄道旅行では、日本のように「待ち時間5分で乗り継ぎ」というのは危険だということが良くわかった。改めて、日本の鉄道の正確さを実感した。
ホームでは、何か荷物を積み込む作業が行われている。それが終わって、進行方向が変わり、トリノを出発したのは7時40分ごろ。出発してからイタリアの高速列車「イーエススター」号とすれ違い、麦畑の中を快調なスピードで走る。
そういえば朝食はどうなったのだろうか。確か昨日は7時30分に持ってくるといったはずだ。今はまもなく8時になりかけている。結局8時をまわって、催促するまでは、朝食は出てこなかった。しかも、その朝食は、カプチーノの周りに、粉がいっぱい飛び散っていたり(つまりカプチーノは粉なのだ)、ヨーグルトがひっくり返っていたりなど、かなり乱雑な状態だった。しかも母親の分にはクロワッサンが載っていなかったということで、思わず「これはお客相手のサービスなのか?」と言いたくなるようなものだった。でも、きっと悪気は全然なく、ただ純粋に忘れてしまったのだろうが、いくらなんでもこれはねぇ…、と言いたくなるようなものであった。
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| 車内朝食サービス。そこらへんのパンやお菓子をまとめたという感じ。 |
日が差し込んで良い雰囲気の廊下。ドアの向こう、乗客はまだみな、眠りの世界にいるのだろうか。 |
荷物をまとめて、ベッドでごろごろしながらのんびりと過ごす。廊下は窓から入り込む陽光で、すっかりダレている。ノバラ駅に8時59分、所定8時23分のところを36分の遅れで到着した。各車から、10人ほどが降りてゆく。しばらく停まってから再び発車。遅れはありがたくないが、そのぶん、長くぐだぐだできるので、そういう意味では嬉しい。
9時10分ごろ、ようやく切符とパスポートが戻ってきた。しかし、入国スタンプは押されておらず、少しがっかりだった。まわりには麦畑が広がっていたが、大都市ミラノに近づいてきたとあって、そろそろ周りにも建物が目立つようになった。
今回の「アルテシアナイト・スタンダール」で一夜過ごしての感想だが、この列車、なかなか便利で設備も良かった。非常に居心地もよく、すっきりと目覚めることができた。しかし、この車両の揺れだけはどうにかしてほしい。こんなに揺れるのなら、居心地も悪くなりかねないし、一番下のクラスならまだいいとしても、最上のクラスである。けっこう「揺れ」だけで、列車の印象は変わるので、サスペンションや台車の改良をお願いしたいところである。しかし、設備やセキリュティーの面では、日本の寝台列車にもぜひ導入してほしいところは多い。さすがに車両ごとに鍵をかけろとまでは言わないが、何らかの方法で、特に、「北斗星」などの旧型車両はセキリュティーを強化してほしいところだ。
そのほか、A寝台以上の利用者のためにラウンジを作ってほしいと思う。上野駅には「カシオペア」「北斗星」の発着するホームに、椅子をいくつか並べた「待合室」が設けられているが、一般の通路脇なので、他の利用者も入りかねないほか、飲み物のサービスもない。「アルテシアナイト」を見習って、ぜひとも日本でも導入してほしい点だ。
9時35分ごろ、予定より30分以上遅れて「アルテシアナイト・スタンダール」は、無事ミラノに到着した。
到着前の放送は、ぶっきらぼうな「ミラノー」の一言だけで、遅れたことに対する謝罪は一言もなかった。
ドアから吐き出されてゆく乗客は、ミラノからさらに乗り継ぐ人、ミラノの観光地へ向かう人など、思い思いの場所へ向かっていった。空になった列車は9時55分ごろ、トリノ方面へゆっくりと動きはじめ、ネグラの車庫へと向かい始めた。
ミラノ中央駅のホームには、イタリアの誇る高速列車「ザルピーノ」や、スイス国鉄の車両まで顔を揃え、とてもにぎやかに見えた。
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| 9時35分、定刻35分遅れながら、無事ミラノ中央駅に到着した、「アルテシアナイト」。 |
イタリアのの超高速列車もホームに肩を並べている。 |
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| ミラノ駅の看板。 |
ミラノ駅の建物。伝統的なデザインが美しい。 |
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